短歌と法律

今回は短歌と「法律」の話である。短歌と「韻律」の誤植ではない。短歌と法律というものは、一見何の関係もなさそうでありながら、実はある共通点を持っている。いや、正確に言うとすれば、持っていた丶丶と言うべきだろうか。一方は詩の一ジャンル、一方は社会を支えるためのルールである。共通点とは、どういうことだろうか。

一つ目の資料として、昭和二十二年八月号の「アララギ」に掲載された「茂吉小話」を引いてみよう。

吾々はやぶれた。やぶれたのは何にやぶれたか、戦にやぶれたのである。戦に徹底的にやぶれてへたばつてしまつた。戦がもう出来なくなつてしまつた。また永遠に戦はしてはならない、またしないつもりである。軍艦一つ造らぬのである。
永遠の丸腰である。へたばつたのである。併し自分の国語までへたばり、堕落せよとは誰が教へたか。永遠に戦争をしない国民が、自分の国語ぐらゐ守護し、大切にしてどうして悪いのであらうか。また、永遠に戦争をしない国民が『こひすてふ』を『こひすてふ』と正しく書くだけの暇が無いとでもいふのであらうか。(後略)

茂吉が怒っているのは、前年の昭和二十一年の内閣総理大臣告示により導入された新仮名遣い(現代かなづかい)についてである。同じ文章の中で茂吉は、新聞の依頼で歌を書いたら、勝手に仮名遣いを直されてしまうのではないかという危惧さえ抱いている。

今年は新仮名遣いの導入からちょうど六十年目の年に当たる。茂吉の心配を余所に、短歌の中ではまだまだ旧仮名遣い(歴史的かなづかい)は市民権を得ている。俳句を含めた短詩型文学は、旧仮名遣いを今に伝える数少ないジャンルと言っていい。

ここで二つ目の資料を引きたい。商法の一部を改正して、今年の五月に施行された会社法と、旧商法との新旧対照表である。

 (会社法)
第七条 会社でない者は、その名称又は商号中に、会社であると誤認されるおそれのある文字を用いてはならない。

(旧商法)
第一八条① 会社ニ非ズシテ商号中ニ会社タルコトヲ示スベキ文字ヲ用フルコトヲ得ズ会社ノ営業ヲ譲受ケタルトキト雖モ亦同ジ

一見して分かるように、旧商法では、文語・旧仮名遣い(しかも仮名はカタカナ)だったものが、会社法では口語・新仮名遣いに変更されている。明治時代に作られた条文を少しずつ改正してきた旧商法は、句読点もなく、はっきり言って読みにくかった。

商法だけではない。民法も刑法も、同じように文語・旧仮名遣いだったものが、近年、口語・新仮名遣いに変更されている。驚くべきことに、主要な法律は、つい最近まで文語・旧仮名遣いだったのだ。

ごく少数の作家や評論家の文章を除けば、短詩型文学(短歌や俳句)と法律は、旧仮名遣いを今に伝えるジャンルの双璧という、意外な共通点を持っていた。しかし、法律のほうは新仮名遣いへの移行がどんどん進んでいる。

短歌や俳句だけが旧仮名遣いの最後の砦になっているとすれば、なんだか心細い気がしないでもない。戦後六十年余、時代はこんなところでも、大きく舵を切っている。

(初出:「りとむ」2006.9)

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