『人魚』の四句切れの歌について 〜染野太朗第2歌集

染野太朗の第二歌集『人魚』(角川文化振興財団)を読んでいると、次のような歌に目が止まった。

ぐいぐいと引っ張るのだが掃除機がこっちに来ない これは孤独だ

塩水で色止めをするあやうさに人を恋いたり 不味いりんごだ

Bボタンぎゅっと押したる感触のふいに戻り来 泣けなかったな

どの歌も結句の前に一字空けがあり、四句切れの歌と言っていいだろう。『人魚』には、こんな形の四句切れの歌が他にも何首もあり、歌集の特徴になっている。

一首目では、掃除機が何かにひっかかっているのか、コードの長さが足りないのか、引っ張っても自分のほうにやってこない場面が詠まれている。思うように動かない掃除機から、思い通りにならない人生に思いが至ったのだろうか。ふと兆した孤独感を、「これは孤独だ」というやや唐突な結句が表している。

二首目と三首目も歌の形は似ていて、「不味いりんごだ」という断定や、「泣けなかったな」という感情の表出が結句に置かれている。三首とも、一読して意味がすっと取れる歌というのとはちょっと違う。例えば、次のような歌と比べると、その違いがはっきりする

すでに老いて父の広げる間取図のセキスイハイムの「キス」のみが見ゆ

ペコちゃんの短い腕を拭きあげてバンザイさせて店員は消ゆ

一首目の「キス」という言葉のパーツへの着目の仕方や、二首目のペコちゃんにバンザイさせるというシュールな行為の切り取り方など、これらの歌は、短歌のツボを押さえた分かりやすい作りの歌である。

これらの歌に比べると、先に引いた四句切れの歌は、いわゆる〈短歌的〉な姿をしていない。結句に、やや強引に感情や断定が示されることで、一首がすんなり終わらないのである。一首を読み終えても、読者の中には、解けない謎のようなものが残る。その謎の答を求めて、ついページをめくりたくなってしまう。そんな役割を、『人魚』の四句切れの歌は果たしているのではないだろうか。

「現代短歌」平成二十九年三月号の歌壇時評「肉体のはなし」の中で、内山晶太が、千代國一による添削例について論じている。

けふの昼より許されし三分粥匙にすくへば悲しくも澄む(原作)

けふの昼わが許されし三分粥すくへば匙に悲しくも澄む(添削)

内山は、この二首を比較し、添削例の主体のほうが圧倒的に「元気であり力強い」とし、次のように述べる。

言葉とは畢竟、人間という一個の肉体から生み出されるものだ。原作には原作者の、添削例には添削者の肉の余韻がどうしてもまとわりつく。にもかかわらず、添削というものに価値を見出すことのできる可能性があるとすれば、それは歌の読みにおいて、個人的肉体をよりどころとするのみではなく、それより大きな規模の公共的肉体を短歌の世界が培ってきたからに他ならない。

この「個人的肉体」と「公共的肉体」という把握を『人魚』の歌に当てはめれば、セキスイハイムの歌やペコちゃんの歌は「公共的肉体」の歌で、四句切れの歌は「個人的肉体」の歌に当たる。そう考えると、これらの四句切れの歌は、『人魚』をより『人魚』らしくする役割を担っているとも言えるだろう。

(初出:「りとむ」2017.5)

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