「短歌版直木賞」設立建白書

佐々木敦『ニッポンの文学』(講談社現代新書)は、最近もっとも刺激を受けた一冊だ。一九七〇年代終わりから始まる小説史なのだが、「(純)文学」とは何か、という著者の問題意識が鮮明で、短歌について考えていく上でも、示唆を与えられることが多かった。

著者は、「文学」を「(純)文学」の意味で用いると定義しているので、ここでもそれに倣うことにしたい。まず、小説において、「文学」と文学でないものが区別できる理由はどこにあるのかというと、日本に芥川賞という「文学」を対象にした賞があるからなのだという。そしてなぜ芥川賞が「文学」の賞だとされているかと言えば、その向こう側に、主にエンターテインメント小説に与えられる直木賞が存在するからだというのだ。

ここで、歌壇の現状に思いを馳せる。考えてみれば、歌壇には直木賞に相当するものがないのである。角川短歌賞も、短歌研究新人賞も、歌壇賞も、現代歌人協会賞も、全てが「文学」を志向した賞だと言える。

かつて今橋愛を世に出した北溟短歌賞や、斉藤斎藤やしんくわが受賞した歌葉新人賞は、既存の新人賞とは違った路線を打ち出し、直木賞に近い位置付けを担いうる可能性があったが、残念ながらこれらの賞は現在では継続していない。今や迢空賞や現代短歌大賞に到るまで、歌壇の賞全般が「文学」の方向を向いていると言っていい。

佐々木の『ニッポンの文学』に戻る。「文学」賞である芥川賞の対象となるのはどんな小説かというと、「文學界」などの文芸誌に掲載された作品である。結局、「文学」とは何かを定義しようとすると、「文芸誌に掲載されている小説が文学である」「文学とは文芸誌に掲載されている小説のことである」というトートロジーに陥ってしまう。

実際、二〇一六年始めの現在、おそらく「文学」は、ただ自らを「文学」だと言い張り、言い募ることでしか延命し得ていないのではないかとさえ筆者には思えます。

このように語る佐々木の問題意識は、「文学」というシステムの制度疲労に向いていると言える。それを解決するための処方箋も本書では示されているのだが、ここでは触れないので、ぜひ本書を手にとってほしい。

さて、「文学」について明確な定義がないというのは、短歌の世界も同じである。にもかかわらず、「文学」の賞が林立しているというのが歌壇の現状だ。一方で、最近の短歌には「文学」という尺度だけでは、評価が難しい作品が生まれて来ている。

攻め込んだゲリラ部隊と店員が特売のねぎでしばきあう午後

裏切りのマグロ戦士と対峙する 宿敵ともよむこうでは正規雇用か

一昨年に刊行された吉岡太朗の歌集『ひだりききの機械』の「もしもスーパーマーケットが戦場になったら」という連作から引いた。

この歌集には、非常に「文学」性の高い作品も収録されているのだが、この連作のようなエンターテインメント性が強い作品も、吉岡の得意とするところだ。

短歌という詩型の可能性を広げていくためにも、短歌にとっての「文学」を「向こう側」から照らし出すきっかけにするためにも、「短歌版直木賞」の設立を提言したい。

(初出:「りとむ」2016.7)

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