靄を晴らす一冊 〜【書評】三枝昻之『佐佐木信綱と短歌の百年』

本文だけで三百五十ページ近い一冊を読み終えたとき、どこかの山の頂に立って、遥か遠くを見晴らしているような気分になった。喩えて言うなら、山の裾野までが近代短歌史で、平地の部分がそれ以前の和歌史に当たるだろう。今まで麓のあたりに靄が立ち込めていた和歌・短歌の歴史が、急に見通しが良くなって眼の前に広がっていくように感じたのだ。

本書の山場の一つは、明治の和歌革新運動における佐佐木信綱の位置付けである。和歌革新運動というと、正岡子規や与謝野鉄幹による旧派和歌への厳しい攻撃が取り上げられることが多い。旧派と新派の二項対立の構図はシンプルで分かりやすいが、重要な部分を見逃してしまいかねない。和歌革新運動をこのように捉えると、近代短歌とそれ以前の和歌との間には、定型という共通項はあるものの、深い断絶が横たわっているように見えてしまう。

断絶しているように見える和歌・短歌の歴史が、実は地続きだったと気付かせてくれたのは、本書の中の「正岡子規や与謝野鉄幹の和歌革新と信綱のそれは大きく違う。わかりやすく言えば、革新のために遺産を切るか、逆に担い直すか、そこが違う」という切り口だ。和歌の遺産を担い直すことが、信綱にとっての和歌革新だったというのだ。

例えば、信綱の「人の心の深くに秘められた憂悶を晴るけることは、歌道の徳の一つである」という言葉が繰り返し引かれているが、人の心の憂悶を晴らすのが歌の徳の一つだという捉え方は、大伴家持の言葉や古今集仮名序にも同様の例があることが述べられており、伝統的な和歌に繋がっていくものであることが分かる。

思えば、現在の私たちも、生きる苦しさなどを短歌に詠むことがあり、歌うことでわずかながら気持ちが楽になることがある。あるいは、一首の短歌との出会いが、生きていくうえでの心の支えとなることがある。人の心の憂悶を晴らす効用を持つという点では、現在の短歌は、和歌と地続きなのである。

本書は、時代ごとの短歌界の動きが丁寧に整理されており、信綱の九十二年の生涯を辿ることで、明治から昭和までの近代短歌史が浮かび上がってくる構成になっている。随所に織り交ぜられている歌人たちのエピソードも興味をそそるものばかりで、ぐいぐいと読み進められるはずだ。そして一冊を読み終えたときには、近代短歌史の向こう側に、遥かな和歌の歴史をも遠望することができるだろう。

(初出:「りとむ」2024.5)

タイトルとURLをコピーしました